「カフェ潮の路を支える人たち ご近所編Vol.3 Kさん前編」は、こちら。
後編では、Kさんが就職されてからのお話をうかがいます。
大卒女子として初めて出版社に入社
― 大学を卒業されて出版業界に就職されてからはいかがでしたか?
マスコミって人気だったのね、あの頃。今もそうかもしれないけど。難関を突破したって感じで入ったから嬉しかったわね。大卒女子の採用は私達(4人)が初めてだったの。
私たちね、「君たちがダメだったらもう女子を採用しない」って言われたんですよ。
肩ひじ張ったわけではないけど、仕事が面白いのもあってがむしゃらに働いたわね。校了前後は完徹も何日か続いた。仕事が面白い、面白いって夢中でしたよ。仕事に男女の差はなかったわね。な、の、に、給料は女性の方が同期の男性より1割も低いのよ。女ってだけで。女性差別ですよ。あとから入った若い男たちがどんどん上へ行く。私たち女4人はずっとヒラ。ベテランでぺーぺーほど始末の悪いものはないわよ。そして給料は遅々として上がらない。別に出世したいとは思ってないけど、あとから入ってきた男たちにどんどん先を越され、命令されるようになるのよね。くやしいじゃない。
学生時代には「人は女に生まれるのではない、女になるのだ」と「第二の性」で書いたボーヴォワールに深く共感して、社会に出てからは更におかしいと思った。
性差別是正への運動のうねり
どこの出版社でも、新聞社も、テレビ、ラジオ局も女性社員は少なくて、冷や飯を食わされていたわよね。だから自然と女子の集まりっていうかネットワークができていった。
大学なんかもね、いつまでも女性を助手に留まらせていたりしたから、教員とか公務員とか、働く女性たちが集まってきたの。組合に婦人部ができたりして性差別を是正しようとする動きも活発になってきた。
国連が1975年を「国際婦人年」と宣言して、世界的に「社会から女性差別をなくそう!」という男女平等を求めるムーブメントが展開されて、日本でも運動体もできてきた。あなた、雇用機会均等法なんてご存じ?あれなんか、このムーブメントが推し進めてきたのよ。
編集者から女性学の教育者へ
私は一生の間に二つ仕事をしていて、一つは大学卒業後に入社した出版社の編集者。それを25年くらい。そのあとは教員。大学で教えていたの。
私みたいな昭和一桁生まれは、男も女も頑張り屋なんだけど、とにかく頑張って頑張って、運動を展開して、「女性学」というものが何もないところから作られていった。大学で女性学の講座を設けたいんだけど、教えられる人がいない。既存の学科は育て上げのプロセスがあるけど、女性学は新しい学問だから何もない。だから、各フィールドで頑張ってきた人たちが引っこ抜かれたのね。お話をいただいたとき、大学院を出ているわけでもないのにいいんですか?って聞いたら、現場を知る当事者から生きた知識を伝える「現場主義」の方向に、文部省が大学の教育方針の舵を切ったようでした。
やっぱり育てていかなきゃいけないと思ったわね。私が思うのは、女性学って女性だけが学べばいいというわけではなくて、男性も変わってくれなくちゃ困るんだけどね。
女性はずいぶん変わりましたよ。専業主婦が四分の一くらいになって、何らかの形で働いている。女性が社会と結びつくようになってすばらしい。「イクメン」とか「カジメン」とか呼ばれる男性がいるみたいだけど、私達の頃からは考えられない。
保育園が足りないどころか、0歳児保育所も育休もない時代
話が戻るけど、私が子どもを二人産んだ頃は保育所がとにかく少なかった。働く母親が少なかったから。0歳児保育所はなかったし、育休もまだなかった。仕方がないから働く母親たちで集まってお金集めて、子育てが終わったようなお母さん達を2~3人お願いして0歳児保育を始めたのよ。大変よ。稼ぎはみんなそっちに行っちゃう。
だからそのころ私達は「ポストの数ほど保育所を」という、保育所を増やせという運動も展開したの。
父のような人と結婚したら、おしまいだと思ったわ
私は女性にとって、結婚って人生を左右しかねないことだと思うの。私の父は九州男児で母も九州女でしょう。ああいう人と結婚したら仕事は続けられないと思ったのよね。父が帰ってくると、母が背広脱がせてやって、靴下脱がせてやって、着物着せてやって…って、子どもながらに何故そこまでやるのか、こんなことするために生きたくない、父のような人と結婚したらいろんな意味でおしまいだと思ったわ。転勤なんかされたら仕事は続けられないし、縦のものを横にもしないような男はダメ。だから私は父を物差しにして男性を選んだのよ。選んだ相手はね、共働きの親のもとで育った男性。家事はできるし、アイロンかけなんか私よりうまかったし、タンスの中もピシッと整理されててね。(笑)
でもそういう男は女性の目から見るといまいち魅力がないというか、尽くしがいがないのかしらね。母がよくうちに遊びに来ていた頃、夫が「お義母さん、お茶はいかがですか?」なんて淹れたりするのね、そうすると母は「あなたの旦那サマはいい人なんだけど、男の人とは思えないのよね」って。(笑)
結婚って(パッションだけでなくて)考えてしなくちゃいけないんじゃないかって。後輩たち、とくに若い女性見ていると思うのだけど、でも、恋愛ってなかなか理性で割り切れないものなんでしょうけど。
カフェ潮の路との出会い
練馬に行くときにバスに乗るでしょ?そうすると店の前を通るのよね。最初は気づかなかったんだけど、ある日、あら?って思って。私、ずっと仕事でランチは外食していたから鼻が利くのよね。ああいう店構えのお店は絶対に美味しいって思って、行ってみよう、行ってみようって思っててね、あるとき店の前まで来て、手書きの看板メニューを見ていたの。そしたら、出てきたお客さんが「ここ、美味しいよー」って言うから、それで入ってきたのが最初よ。正解だったわ。大発見した気持ち。へぇ、こういうところがあったのかぁって。
食べ物が美味しいし、献立は工夫されているし、カフェを開いた動機もあとで知って胸に響いたの。美味しいから通っているんだけどね、スタッフもいろんな人がいるでしょう。髪を紫色に染めた人もいるわ、フランス人もいるわ、もう、眺めているだけで楽しいの。そこへもってきてなんてお呼びしたらいいのかしら?元路上生活をしていた方たち?
― 今も路上生活を送る方もいらっしゃいます。
そういう方たちはそれぞれいろんな人生を生き抜いて今があるわけよね。毎回池袋から歩いてくる方も、黙して語らないというか、ものすごくシャイでね、でも喋りかけるといろいろボソボソと答えてくれる。
「あなたいつもそこの席が指定席だから、空けてあるから」なんて話しかけると、「すみません」なんて照れ臭そうに答えてくれたりしてね。
― 常連のSさんも、Kさんがご来店すると、「ここ、空いてるよー」と声を掛けるようになりました。彼もシャイですが、この地域での生活も3年が経過して、居場所ができ、顔見知りもできて、ようやく地域に属していると自覚できるようになったのだと思います。
Oさん(常連さん)は地元のシニアサークル(絵手紙教室)のクラスメートなんだけど、カフェに来たらいるから「あら、あなたもここでゴハン食べてるの?」なんて驚いたりね。彼は本当に器用でね。素晴らしい絵を描くのよね。私は絵を描くのは不得意でOさんのような才能はないんだけど下手の横好き。絵手紙クラスが終わってOさんを潮の路に誘うと、「自分は用があるから3時頃行く」っていうんだけど、私はそれじゃあお腹空いちゃうから先に行ってるわって。素朴でユーモアのある方よね。
― では、ホームレス支援や私達の取り組みとは関係なく、カフェ潮の路にご来店くださったのですね。
もう、ほんっとたまたま。食べることが目当てで来てみたら独特の雰囲気を醸し出しているお客様がいらして、じゃあ私はどうやって接したらいいのか戸惑いもあったんだけど、人に接する仕事をしてきたから、すぐ慣れていったわよね。ところでここ(カフェ)は誰が代表なの?あなた?
― 代表は稲葉です。
さっき、ウロウロしていた人?いつも下(スタンド)にいる人?
― はい、さっき後ろで洗濯ものを干していた人です。
あの人が代表なの?どういう人なの?
― 本当に私達のこと、ご存知なくて来てくださっているのですね。嬉しいです。(笑)
この年だから高座に上るのも大変よ。這い上がるのよ(笑)
私、ずっと無趣味で、70歳で辞めるまで仕事の鬼みたいな人生だったから、辞めたあと何やろうって思ってたんだけど、子どもの頃にお友達がピアノを弾いていてね、欲しくて欲しくて、親に頼んだけど「転勤が多いから」って許してもらえなかったの。だから、少女の頃の夢を定年してから叶えようとピアノを習ってみたんだけど、やはり先生っていうのは早く習得させようとか発表会に出そうとか頑張らせるので、自分のペースで習うことができないのよね。だから人に習うのはやめて、CD聴きながらバイエルを独学で学んでるの。もう10年近く。エリーゼのためにとか、乙女の祈りとか弾いてね、「これが弾きたかったの!!」って感激しながらね。
ピアノは一人でやっているんだけど、で、絵もやってみましょってシニアサークルの絵手紙教室に入って、歌も歌ってみましょって思って、歌はもともと好きだったからコーラス部に入ってね。落語教室にも行って、高座で「三途の川」っていう小噺を披露したり。この年だから高座に上るのも大変よ。這い上がるのよ。
だけど、そういうところに出てくるのはほとんどが女性よね。Oさんみたいな男性はほとんどいない。定年退職後の男は部屋に閉じこもってアルコール依存症になっちゃう人が少なくない。
いろいろやってきたけれど、退屈しなかったわ。
サークルでは、過去の職歴とか言う人は浮いちゃうのよね。だから、私も過去のことは一切言わないで、そんなことは関係なしに地域住民の一人として楽しんでるのよ。そうするとね、これまでは出会えなかった素晴らしい人たちと出会えるの。人間が好きだから人間にはずっと興味があるのね。
九州で生まれて、それこそあちこちで暮らしていろんなことをやってきたけれど、良かったのかも。だって退屈しなかったわ。退屈が一番苦手だから。
― 人生を楽しんでいらっしゃいますね。
来年で平均寿命(87)ですから。(笑)
さいごに…
― 女性差別やジェンダーの縛りがいまだ残るとはいえ、私達の世代は自由を謳歌でき、様々なチャレンジができ、多様な生き方を選べるようになりました。その自由は、日本で「女性学」も「フェミニズム」という言葉も存在しなかった時代に男女同権を求めて立ち上がったKさんはじめとする女性たちが道なき道を切り拓いてくださったおかげなのだと実感しました。出会えたご縁に感動しています。そして、心から御礼申し上げます。最後に、今の時代を生きる女性、そして男性に一言お願いします。
私たちの頃に比べて、女性の現状はずいぶん違ってきていると思います。結婚する人、しない人、同性同士の結婚、子どもを産む人、産まない人、出産後も働き続ける人、いったん家庭に入って子育て後にまた働き始める人など、多様化し、それぞれの生き方を認め合い、理解し支え合う多様性の社会となってきています。
でも、私たちが50年近く前に「ボク食べる人、ワタシ作る人」の性別役割分業意識をなくそうと声をあげた頃と、今も意識はそう違っていないような気がします。とくに男性に旧態依然としている人が少なくない。家事、育児を「手伝う」意識でなく、自分の仕事として引き受ける。本当のカジメン、イクメンに変わって欲しい。
男を変えるのは女の力です。身を置いている場で、娘として、妻として、母として、職場の同僚として、身近な男を変えていってください。
インタビュー/編集:小林美穂子