下町コミュニティの記憶~カフェ潮の路を支える人たち Vol.4 ボランティア編

インタビューシリーズ第四弾は、「カフェ潮の路」のキッチンや配膳を手伝ってくださるボランティアの大関さん(七十代)です。

実は、私は彼女の息子さんと前職で同僚でした。いつもてんやわんやのカフェ運営にアップアップしていた私を見かねて、息子である輝一さんが母親に声をかけてくださり、以来、アクセスも悪い北千住から通ってきてくださっています。彼女の豊かな人生経験と、その大らかなお人柄に、私もほかの若いボランティアたちもどれだけ助けられているか分かりません。困っている人がいれば躊躇せずに手を差し伸べる、そんな彼女の性格はどんな環境でどのように形成されてきたのか、とても興味があったので、インタビューを申し込みました。東京から消えてしまったコミュニティの姿が浮かび上がってきます。

まるで江戸の長屋 -コミュニティで支えあう暮らし-

 

―お生まれは下町ですか?

大関:ううん、熊本。熊本で15歳まで育って、集団就職で岐阜の紡績会社に3年務めました。18歳の時に岐阜で働き続けることに疑問を感じて友達と二人で上京、千住の市場で働くご家庭でお手伝いさんをしたの。はじめて来た東京は車と人が多くてビックリした。街ゆく人も歩くのが早くて、ついていけないと思うほどだったわ。

―私が子どもだった1970年代の群馬ではコミュニティが生きていて、近所の子どもたちが上級生も下級生もみんなで暗くなるまで遊んで、大きい子が小さい子の面倒を見て、いたずらをすれば近所のおじさんにみんなで叱られたりしていました。お祭は地域総出で大盛り上がりになって、良くも悪くもコミュニティ単位でいろんなことが動いていました。でも、今は個人個人という単位になっていて、東京などの都市部では隣に誰が住んでいるかも分からないことも珍しくないようです。大関さんの話からは、ご近所さんの話がたくさん出てきます。そんな話を詳しくお聞かせください。

大関:東京に来てから3年経った21歳の時に結婚してアパート生活になって、25歳で子どもができて、そこから近所づきあいが深くなったのかな。

子どもができても親が近くにいるわけじゃないし、一人で子育てをするのは不安だらけなんだけど、近所の親分肌の奥さんが産後一週間くらい産湯の使い方から教えてくれた。

そのあとはみんなで銭湯に行ってね、お風呂の入れ方も教えてもらった。小さな子どもを持つ親たちもいるから、一歳の子も二歳の子もいて、自分の子の一年後、二年後も分かる。私がお風呂を使うときには別の人が子どもを着替えさせてくれたり、お風呂も助け合いながら。そうやって、近所の人たちみんなが一緒に子育てをしてくれたわね。

慣れない場所での子育てだったけど、夫婦でというよりも地域の方々に息子を育ててもらったという感じ。そんな感じで育つから、子どもたちもいろんな大人たちと親密になる。あちこちでかわいがられてね。お互いの家には鍵もかかってないから、息子は自由に行ったり来たりしてましたよ。

―コミュニティのつきあいを面倒くさいと思ったことはありましたか?

大関:それはありましたよ。やっぱり親分肌の人を立てないといけないし。イヤミ言われて頭にきて疎遠になったこともあった。でも、近所だから避けられないのよね。洗濯物干すために窓を開ければ相手とも顔を合わせちゃうし。しばらく冷戦状態だったこともあったけど、その方のご主人がどうも注意してくれたみたいで、だけど彼女はごめんねって言えないもんだから、菓子折り持ってきてね、しょうがないからそれで仲直りしたなんてこともあったわね。(笑) 子どもは大人同士の感情のぶつかり合いには無関係だから、大人同士が口をきかなくても、自由に行き来してましたよ。

―主婦コミュニティの中でイジメはありました?

大関:そういうのはなかったわね。下町の雰囲気に合わない人はそもそも近付いて来ないから。

幼稚園まではグループで子どもを育ててもらったんだけど、その後べつの町に引っ越したあともいろんな人がいて、私より年上の子どものいない奥さんや、地域のお年寄りがみんな息子をかわいがってくれて、あちこち遊びに連れてってくれたり、ごはん食べさせてくれたりしたわね。息子もみんなに懐いてノビノビ育った。

―教育方針の違いや甘やかされることが心配になりませんでしたか?

大関:「息子さんは大人とは会話できるけど、子どもとは会話ができていないから気を付けないといけないよ」って友達に指摘されたことがある。地域には子どももいたんだけど、どちらかといえば大人ばかりの中にいたからね。ハッとして、気をつけなくちゃいけないなと思ったけど、小学校に上がったら自然に同年代の友達と遊ぶようになったので安心しました。

歳をとり、今度は自分が支える側に

 

―お子さんを生んでから5年後に北千住の別の町に引っ越されて、今もそこでご近所の女性たちと支え合いながら暮らしておられます。今の町でのコミュニティはどのように形成されたのですか?

大関:元の町の人たちもどこかに越したりしてバラバラになったけど、それでも数人はずっと付き合いが継続してる。私も数年前に主人が亡くなってしまったから、それで親しい人たちやご近所さんで集まるようになったのね。日常的にご飯に誘ったり、お茶飲んだり、5人くらいでツキイチ女子会と称して集まったり。私が一番年下。

女子会も私がみんなの食事を作ってもてなすんだけど、自分が好きでやってることだから苦にはならないです。作るのも好きだし、みんなが喜ぶのも気持ちいいしね。

仲間の中には足の悪い人もいるし、体調がいまいちの人もいるじゃない。だから、どこかに皆で遊びに行くにしても、バリアフリーかどうかとか、スケジュールに無理がないかどうかとか、全員が楽しめるように下調べして行く。

―その段取りや下調べも全部大関さんがやるんですか?

大関:そう!

―コミュニティの力というよりも、大関さんの力ですね。

大関:みんな年寄りだから、お互いに「ちょっと何かあったら声かけてね」って言い合ってる。関係性がまだ浅い人だとあまりズカズカ入り込んじゃ悪いから、「何かできることがあったら言ってね」と適度な距離を保ちながら相手が孤立しないようにしているの。

いま、毎日のように食事を持っていっている人がいるのだけど、その人は女子会のメンバーで、ご主人亡くなって一人暮らしで、息子さんが来て面倒みてくれているけど、鬱になってしまってね。同じ話ばかり繰り返すし、友達に会うのも拒絶して寝込むようになってしまった。でも、食事も摂らないようになっていたからそれじゃあ困るだろうと思って、「なになら食べられるの?」って聞いたら、「スープなら」っていうから、毎日持っていくようになったの。いつ「もう来ないで」って言われるか分からないけど、放っておくわけにもいかないから、彼女が私を受け入れてくれる間は持って行く。私は用事だけ済ませると「ちゃんと食べてね」って言うべきことだけ言って、あまり長居しないようにして自分にも無理がないようにしている。彼女はずっと頑なだったけど、最近行くと、「大関さん、なにしてるかなぁって思ってたんだよ」なんて言ってくれるようになった。息子さんは市販のお弁当を買うだけだけど、私は手作りのものを持っていくから少しは嬉しいのかな。

最近は少し歩けるようになったから、お散歩に誘い出したりしてね。最初は嫌がっていたんだけど、最近では「お散歩連れて行ってくれない?」なんて向こうから電話がかかってくるようになったから、「うん、いいよ。じゃあ、今行くね」って言って、近くの公園の日当たりのいいベンチで二人で座ってお喋りしていると、通りかかったご近所さんに「あら、お元気になったわね」なんて喜んでもらうと本人も気分が良くなるのか、あとで息子さんに電話して疲れてないか聞いたら、「全然!ルンルンですよ」なんて(笑)。だから、「また行こうね」って言ったら「うん」って。(笑)

―かわいいですね。(笑)

大関:寝たきりになっちゃマズいから、最近は歩行訓練。一人では歩けないから手をつないでゆっくり歩いて、安全な道でちょっと手を放して自力で歩いてもらったりしてね。

―大変じゃないですか?

大関:放っておくわけにもいかないし、私が好きだからやってるだけで、別に大変ってことはない。

周りの力を借りて、私は変わったのだと思う

 

―面倒見がすごくいいんですよね。カフェの手伝いをしてくださるのだって、息子さんから頼まれて私たちのことまで助けてくれる。私の気が回らない部分をいつもカバーしてくれ、若いボランティアさんの面倒まで見てくれる。本当にありがたいんです。

私がカフェで、代表の稲葉と前代未聞の大喧嘩をしたことがありましたが、その時、大関さんは黙ってもう一人のボランティアを連れて、サーーッと階下に降りて行った。大変にお恥ずかしいところをお見せしたにも関わらず、そのあとにカラカラと大きな声で笑ってくださった懐の広さに救われました。実にお見事でした。

大関:楽しいし、違う環境は面白い。若いころは引っ込み思案で人としゃべるのも苦手で、その反面はっきりものをいうほうだから嫌われることもあったけど、好きになってくれる人もいたし…。でもあんまり引っ込み思案じゃあいけないなと思って、ある時期、外に出るようになったのね。それは子育てしている過程で気づいたこと。一人ではできない。他人の力を借りないとできないって痛感したのね。周りの力を借りて、私も変わったんだと思います。

―大関さんは個が確立されています。

大関:他人の評価はあまり気にしない。耳の痛いことを言われて、その時はカチンとしても、よくよく考えて納得できる部分は自分を変える。でも、核となる部分は変える必要はないと思っている。人の顔色を見ながら生きるのはイヤ。

―今日、子育てに悩む若い母親がカフェにいらっしゃいました。そのとなりで大関さんが親身に話を聴き、励ましていた。母親は泣いておられた。私だったら彼女が悩んでいることにも気づけなかったです。

彼女と同じで、自分も実家から遠く離れた場所で子育てしていたからね、彼女苦労や悩みは重なるところがたくさんあったから。「あなたはしっかりやっている。自信持ちなさい」って思ったままを言ったまで。

―大関さんは楽しむ達人です。カフェに来てくださるようになった最初のころも町を散策されて楽しんでいたし、年齢や背景の異なるボランティアの皆さんともすぐに打ち解けて信頼された。カフェにやってくるお客さん達は大関さんのこれまでの生活環境にはあまりなじみのない人たちだと思うけれど、大関さんは肩ひじ張ることもなく、遠慮することもなく、ごく自然に関わってくださっている。とにかく無理をしてる感じがない。

大関:私は、無理は…できない!(笑)

―いつでもどんな環境でも全然変わらなくて、誰とも自然体で接して、どんな変化も楽しむ姿を見ていると、多くの日本人も大関さんみたいに生きられたらどんなに楽だろうと思うんですけどね。

大関:ほんとですね。

―大関さんの周辺では下町コミュニティが生きていますが、下町といわれる場所であっても、もうそのような習慣も文化もないですよね。

大関:今はないですね。昔は子どもも多かったからね。たくさんいると、ちょっとはみ出しちゃう子がいても、その子を孤立させたりはしなかったからね。誰かが慰めに行ったりして。今はゲームでしょ?外で遊んでる子どもをあまり見ないわね。子どもの世界も様変わりしましたね。

―もし、大関さんが体調を悪くしたら、お仲間は助けてくれるんですか?

大関:いやぁ、みんな80過ぎだからね。

―それじゃあ、大関さん、若手を育てないと。

大関:今の若い人たちは夫婦や家族単位だから。

―お互いに後継者づくりが課題ですね。

◆下町コミュニティで育った息子輝一さんのおはなし◆

 

東京で生活困窮者支援のNPOで働いていた大関さんの息子輝一さん(46歳)と出会ったとき、「オレはヒモの切れた風船だから」と自分を語っていた。ヒモが切れた輝一風船は、2011年3月11日の東日本大震災直後に大船渡に飛んで行ってしまい、以来東京に戻ることなく、現地で二つのゲストハウスを経営する傍ら、古本屋を営む。訪れる人たち相手に震災ガイドもしている。
輝一さんの、日本人には珍しいほどの自由さを育んだ千住のコミュニティについて語ってもらった。

自分を育んだ地域社会こそが自分の原点 

 

:東京の地域コミュニティが残っていた最後の世代だったんだよね。俺よりも5年下の人たちは経験していない。俺世代がギリギリ。千住って下町なので、東京の中でも下町コミュニティが最後の最後まで残ったところで、俺は地域に育てられた感がある。近所のみんながお父ちゃん、お母ちゃん。5歳のころに今の実家である団地に引っ越してきたんだけど、5歳まで過ごした町が、「ザ・地域社会」だった。

家に鍵なんかかけないね。俺の三歳くらいの時の記憶は、一階のすごい狭いアパートだったんだけど、昼寝していて起きると誰もいない。「あ、母ちゃんいない」と思う。でも、どこに行ってるかは知っている。「ババン(親分肌の人のあだ名)の家だ!」と思って、道から行くと遠回りだから、壁をよじ登ってタカタカタカって走っていくと、母親も、ご近所連中もみんなそこにいる。

ババンの旦那さんがタクシーの運転手で、ご自身は内職をしているから大抵家にいる。ちっちゃな俺も連日そこに行って、内職の手伝いしてた。内職の手伝いしながら大人の話を聞いているから、マセガキになったね。

大人たちは時々大人同士の話がしたくなったり、子どもが邪魔になるから、そうすると親たちのだれかが「遊んでおいで」って小銭くれて、それ持ってアーケードのゲームして、終わって戻ってくると別の大人が小銭くれて、またゲームしに行って、焼き芋屋が来ると別の大人が「買っておいで」ってお金渡してくれるから、ダーッて買いに走って。毎日焼き芋買いに走ってたもん。

―相当邪魔にされてたんじゃあ…。(笑)

:いや、かわいがられてたよ。悪さしたら怒られたし。親も怒ってくれって頼んでたし。

それが当たり前かと思っていたら、俺より5歳下の世代に聞くと、そんな近所づきあいはなかったって言われるんだよね。コミュニティが解体されちゃったんだよね。

―どうしてでしょう。

:地域の女性が誰かの家に集まるという形式が変わったんだろうね。主婦が働くようになって、だれかの家に集まることがなくなったとか。生活形態が変わったんだろうね。あの頃は結婚した女性はみんな主婦だったから。

5歳までにいたアパートでかわいがってくれたババンとは別に、俺には引っ越した先の団地にもう一人とても特別な育ての親がいる。同じ団地に子どものない夫婦がいて、その奥さんが値段の張る音楽とか落語とかにしょっちゅう連れて行ってくれた。うちの母親も連れて行って支払ってくれたりしてね。一人で行くのはつまらなかったんだろうね。この人からは「物事はピンからキリまで全部見ろ」と言われて、この世を生きていく上での知恵や経験をたくさん授けてもらった。あと、その人からいただくお菓子が高級で美味しくてね~。今でも覚えているもの。(笑)

―ご近所との密接な関係は、お母さんにとっては時にストレスでもあったでしょうね。

:当時の俺にはまったく分からなかったけど、あとで聞くと、泣くこともあったみたい。あの母親が泣くんだ!って驚いた。(笑)

でも、母親のえらいところは、大人同士の関係と子どもの関係をちゃんと分けていたこと。子どもは関係ないからって。だから、俺は全員大好きで、みんなからかわいがられた思い出しかない。だから、人に何かするのも当たり前だと思えるようになった。

今大船渡でやってることも、よく考えてみると「地域づくり」なんだけど、それはやはり子どもの時に過ごした地域を再現しようとしているんだなぁと思い至った。

人のために何かやるとか、かつて貧困問題に関わったことにしても、震災支援に行くことにしても、小さいときに地域の人にかわいがられて、育てられた経験や記憶がルーツになっていて、あの地域社会こそが自分の原点なんだなぁと数年前に気づいた。

インタビュー後記

 

大関親子のお話を伺い、大関さんの快活さ、懐の深さ、暖かさ、柔軟さ、面倒見の良さは、元来の人柄にコミュニティでの経験が加えられて醸成されたものであったことが分かりました。そして、「自由」を体現するように生きる息子の輝一さんが、いかにたくさんの人たちに囲まれ、愛されて成長したかということも。

お話を聴く過程で、私自身が多くの友や知人、つまり他人に育てられ、支えられて生きてきたことを思い出し、暖かい心持ちになりました。

「カフェ潮の路」に集まる人々は、家族や古い友達らと縁の切れてしまった人が多いです。そんな人たちとゆるやかに繋がることで、孤立を防いだり、依存症やトラウマの問題を抱える人たちがそれ以上悪い状態にならないように努めているのですが、その取り組みを行う上で、大関さんのご近所さんとの付き合いがとても参考になっています。

団地のお付き合いや昭和のころの関係性のままというわけにもいきませんので、時代に合わせ、人に合わせたカスタムメイドの関係性を「つくろい東京ファンド」でも、「カフェ潮の路」でも紡いでいき、そして広げていけたらと思います。

インタビュー/編集:小林美穂子

関連記事:「カフェ潮の路を支える人たち」vol.1~3はこちらでご覧になれます。

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