「あなたは女の子なんだから」~カフェ潮の路を支える人たち ご近所編Vol.3 Kさん前編

手すりをしっかりとつかんで一歩一歩慎重に階段を上がって来られるKさんは、ご近所にお住まいのカフェ常連さんです。カフェでいつも顔を合わせるお客様たちと顔見知りになり言葉を交わし合う、ほど良い関係を築いてくださっています。丁寧で美しい言葉使いや、凛としたお姿、そして好奇心がとても旺盛でいらっしゃるところなど、以前からとても気になっていた方でした。

このたび、思い切ってインタビューをお願いしたところ、想像を遥かに超える人生をうかがうことができ、瞬きをするのも忘れるほどでした(インタビュー/編集:小林美穂子)。

北海道から沖縄、海外は北京まで。13回の転校をした少女時代

― Kさんは、ずっとこのご近所にお住まいですか?

10年くらい前からこの近所に住むようになったの。

歳をとって家族がどんどん減って、夫も亡くなって、子どもも独立したでしょう。それで、家を持て余したのよね。早晩、階段の上り下りや庭の手入れも大変になるから。そう思って、家を売り払って、バリアフリーのマンションに移って、9割がたのものを捨てて最低限のものだけでシンプルライフっていうの?そういう暮らしをしているんですよ。

生まれは九州なんだけど、たまたま九州で生まれただけで特に縁もないのね。父親が国家公務員で転勤が多くて、引っ越しと転校を繰り返してきたの。風の又三郎みたいにね、転々と。学校なんてね、13回変わってるのよ。履歴書なんかあなた、書ききれない。当時は今みたいに単身赴任なんてなくって、必ず家族全員で移動していたからね。

今でこそ情報化社会で、テレビやラジオを通じて標準語が日本中に行き渡っているけど、私が子どもの頃は地方の言葉が生きていたから、転校すると言葉には苦労しましたよ。

友だち達が遊んでいるところに「混ぜて」とか「入れて」っていうでしょう?九州地方で「かてて」って言う所もあるの、最初は分からなかったわよ。教科書は「国定教科書」といってどこも同じだったから大丈夫だったけど、言葉は困ったわね。

北は北海道から南は沖縄、海外は北京まで転勤したけど、言葉は親に比べて子どもたちの方が習得するのは早かったわね。親は大変だったと思うわ。

日中戦争開戦の年に北京駐在

― 北京には何年くらいいらしたんですか?

3年くらいいたわね。

小学校二年で帰ってきたから、そう3年ね。(1937年~1940年)

― そのころの中国は今とは随分違っていたでしょうね。

そうね。父もよくあの時代に家族連れて北京に転勤したと思う…うちは子どもが多いんですよ。7人兄弟。私は上から二番目で、中国に行ったころは4人いたのよ。ちょうど日中戦争が始まったばかりで、私は4歳くらい。

今から考えたら申し訳ないと思うんだけど、役人として赴任しているから、豪邸に住んでる中国人を追い出して、取り上げて日本人が住んだりしていたのね。私は子どもだったから呑気に中国人のお手伝いさんの子どもたちと中国語で遊んでいたけど、子どもの目から見ている分には差別は分からなかったわね。私達は戦局があまり悪くならないうちに帰国しましたけど、敗戦後に帰ってきた人たちは大変だったと思う。

ちょっと前に北京に行ってみたけど、これが北京?って思うほどに高いビルがいっぱいに建って、胡同のような古い建物はみーんななくなっていて、面影もなかったわ。

小6、仙台にて終戦を迎える

満州事変から始まって、日中戦争、太平洋戦争と、「十五年戦争」って呼ばれる長い戦争のただなかにいて、ようやく終戦を迎えたのが小学校6年生の時。

空襲なんかが始まっていた時に私は小学校最上級生で、集団登下校のリーダーだったの。で、登下校の最中に「空襲警報発令!」ってなると、下級生たちを連れてもうどこに逃げたらいいのか…小さい子どもなりに防空壕探して入ろうとするんだけど、「ここはいっぱいだ」って断られたりして右往左往したりしてね。戦争に負ける直前のころよ。

終戦は仙台で迎えました。杜の都。

戦争中はまだ食べ物があったんだけど、それより戦後の方が大変だったのね。そうでなくてもお腹減らした人がひしめいていたところに、兵隊さんや海外からの引揚者が帰ってくるでしょう。食べ物は限られているし、だから戦後の方が食べ物は大変だったわね。お米があまりないのよ。生産者の方が有利で、サラリーマンなんて弱いですよ。お米に芋や大根を混ぜてね、今でこそオシャレでヘルシーなのかもしれないけど、当時は大根飯で食いつなぐしかなかった。

仙台での空襲は7月10日に一回だけありました。都心が焼けたわね。私の家は山の手だったから難を逃れたんだけど、友達で被害に遭っていた人もいたわね。

― 想像以上の人生を送って来られたのですね。びっくりしました。

そう?のほほんと生きてきたように見えた?(笑)

女ゆえの、教育をめぐる家族との攻防

うちは7人兄弟で、そのうち5人が男なの。私が上から二番目で、末っ子の妹が生まれるまでは一人娘だったから、さぞかし可愛がられて大事にされたでしょう?なんて人から言われるんだけど、とんでもない。要するに「お手伝いさん代わり」なの。他の兄弟もいるのに、私だけが「あなたは女の子なんだから」と、子どもの頃から母親の手伝いをさせられて。

中学から高校に上がるときも、(進学は)もうやめろって言われたの。学校制度が私の頃に変わって、それまで義務教育は小学校だけだったのが中学校までに延びたのね。

それで私が中学を卒業する頃になると、母親が「あなたは中学校を卒業したら、もう学校はよろしい」と。母親の時代には中学校と同格の「女学校」っていうのがあったんだけど、母親が言うには「私だって女学校しか出ていない。高等学校なんてところは男の子が行くところで、女は行かなかった。うちは子どもが多いから中学を出たら家事手伝いをやりなさい」なんて言われてね。だけど私は「中学校だけで終わって高校に行かない人はとても少ないのよ。経済的に困っている人は働くために中学校でやめるけど、そうじゃない人はみんな行くのよ」って言ったら、うちの母はお体裁屋さんだったからハッとしたみたいで、高校に行かせてもらえることになったの。

落ちればいいと思われて受験するほど気楽なことはないわよ

私が高校の時に兄が大学に進学して、次は私の番だと思ったらね…当然でしょう?

そしたらまたもや「あなたは女の子だから大学に行かなくてよろしい」って。「うちは子どもも多いのだから女の子まで大学に行かせるわけにはいかない」って、今度は父がいうのよ。「私も女子専門学校に行きたかったけど行かなかった」なんて母にも言われて。もう、私、何で勉強してきたのか分からなくなっちゃって、ノイローゼみたいになっちゃったのね。

そしたら兄が両親を説得してくれたの。これからは女性もいろんな勉強をして、社会で活躍する時代なんだって。そしたら渋々了承してくれたんだけど、試験に落ちればいいと思われていたの。期待されて何としてでも合格しなきゃって思っていたらプレッシャーになると思うんだけど、落ちればいいと思われて受験するほど気楽なことはないわよ。ただし、条件があって、女子大でなければだめ。兄がいる東京じゃなきゃだめ。

まぁ、でも、それで合格したの。気楽に受けられたから。私は喜んだけど、親はがっくりしたんじゃないの?(笑)

晴れて大学に入学して、奨学金と家庭教師を二つ掛け持ちして学生生活が始まったわ。

憧れの学生生活は相部屋で。

― お兄さんの下宿で同居したんですか?

ううん、寮。

それが悲しくなるような寮でね、戦災で焼け残った古い宿舎だったところで、ボロボロの木造建築で草ぼうぼう。他の女子大はきれいな個室なのに、うちは四畳半なら2人、六畳なら3人、八畳なら4人の相部屋。

― 貧困ビジネスの施設みたいです。

同学年同士では同じ部屋にならなくて、必ず先輩が同室なのね。最上級になればいいんだけど、それまではとにかく女の園だから、言葉遣いとかうるさくてね、「知りませんじゃないでしょ、存じ上げませんでしょ!」とか、「‘わたし’じゃなくて‘わたくし’でしょう」とか、畳のヘリを踏んだとか踏まないとか(笑)。

だから学校が終わったらバイトに行くでしょう?家庭教師のお宅で美味しいご飯を出してくださるの。なるべく遅く帰るようにして寮にいる時間を短くしたの(笑)。

― 貧困ビジネスの宿舎に入所した人と同じ行動パターンです。(笑)

ニューヨークで見た日本人女性のつつましさ

― Kさんは英語がお上手ですよね。以前、カフェに来られた海外のお客様の通訳をしてくださったことがありました。英語はどちらで?

仕事がらみで勉強したのね。泥縄みたいなもので。仕事の都合で一年、ニューヨークに行くことになったので。堪能ってほどじゃないわよ。英語って環境さえあれば喋れるようになると思うのよ。学校で学んだものは実践では何の役にも立たなくて、やはりその環境に身を置くということで耳ができてくるというのか、喋れるようになるんじゃないかしら。

― 人によると思います。20年海外で暮らしていて数字しか言えない人もいると聞きます。

それは分かる。外国の人ってパーティが好きじゃない?呼ばれていくと、「なんだこれは!」って思うことがありましたわね。ずっと現地に住んでらっしゃって、どこどこの英文科出たっていう日本女性たちが全然喋らなかったりするのよね。

どうも、あまり英語をべらべら喋るのはよくないらしい。社交の場で妻や女が英語でべらべらしゃしゃり出るというのは好ましくないという風潮があったわね。静かに微笑んでいる大和撫子がいいって。私なんて、興味持ったらどんどん下手な英語で話しかけていってたから、それはつつましくないと思われていたと思うわね。誰がどう思おうが気にしないですけどね。【前編終わり】

※後編(12月2日アップ予定)に続きます。

 

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